200504

1階で母が物音を立てていたせいか、早くに目が覚めた。いつもならそこで寝返りを打ち目を閉じるのだが、今日はそのまま起床した。昨日買った本を読むのが楽しみだった。下に降りていくと母はキッチンの整理をしていた。顔を洗い歯を磨き、わたし用のひとり掛けの水色のソファーに沈み込み本を読み始めた。時々母に呼ばれて手伝ったりしたが、読み始めてすぐ物語に引き付けられた。

流浪の月という凪良ゆうさんの作品で、今年の本屋大賞受賞作品らしい。店頭で紹介されていたのを見てすぐに読みたくなっていた。今日はご飯やシャワー以外の時間、ずっとこの本を読んでいた。いつもは母と1階の部屋で寝る前までテレビを見て過ごすのだが、今日は早めに自分の部屋に戻り、布団の横のライトだけをつけて残り少なくなったページをめくり続けた。

今夜は暑い。窓を開け、布団から足を投げ出し、枕を引き寄せてうつぶせで読んでいた。スタンドライトから漏れる灯が紙の上に七色の透明の光を映す。ページをめくるごとに違う角度や濃さで手に取れない宝石のように揺らめいていた。最後の1文を読み終えた後、また5行ほど戻り読み返し、それを数回繰り返して本をたたんだ。片腕を枕に顔を乗せて目を閉じ、しばらく余韻のようなものに浸っていた。

私たちはいつも、自分勝手に事実と真実を一色単にひっくるめて考えてしまう。しかしそこでは本人たちの気持ちがまるで無視されているということに気づかされた。例えばニュースで読み上げられる事実。その被害者と加害者。本当に被害を受けたと言ったのか。害を加えたのか。事実の点と点をつなげてまっすぐ綺麗に描けたとしても、本人たちが抱えている見えない点を繋いでいくとまた別の真実が埋もれているかもしれない。それなのに世間はニュースなどで知った事実だけで同情や焦燥を抱いたりする。ネット社会が定着している今、その限りある情報で得た正義という名の偏見はスルスルと親指ひとつで何十倍にも膨らませて振りかざされる。私が美しいと思っているものに対して誰もが一緒に心を動かしてくれるわけではない。今見えているものがすべてではないからだ。見えているもの以上に感じるもの、託している思いや思い出、すべてが複雑に絡まり合って魅せられたりするのではないかと感じた。